掌編エッセイ『一言の収穫』

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まだ寒風吹きすさぶ一月末のこと。仕事のキリが付いたのをきっかけに、ふと、温泉へ行きたくなった。とは言え、そんなに遠方まで行く資金はない。自分の家から近場と言えば有馬温泉があるのだが、そこではないどこか別の所に行きたい。それも、一泊してゆっくりしたい。少し考えて、滋賀に雄琴温泉があることを思い出し、思い立ったが吉日、オフシーズンだが構うものかとばかりに、適当な宿へ予約を入れていた。

『雄琴に行った』と言うと、関西人ならば、好事家ならずとも『歓楽街遊びか』と勘ぐられる。実際の歓楽街は駅から少し離れた所にあり、きちんと『棲み分け』はされている。しかし、一度ついてしまった印象というのは恐ろしい。温泉側も、その汚名は重々承知の上らしく、最近は、イメージの払拭に努めているという。私が雄琴を選んだのも、どんな風に町が変わりつつあるのか、見たかったからだ。

ところが、いざ到着してみると、その期待はいささか裏切られることになる。あまり悪し様に言いたくはないが、様々な面で、この町がイメージチェンジを果たすには、まだかなりの時間が必要なように思われた。

貸し切り状態の温泉で、たった一人で湯治をしつつ、他に宿泊客のいない部屋の中、たった一人でかなりの量の鍋料理をつつきつつ、という、豪華なはずなのに何だか苦行のような夜を終え、次の日の朝。宿泊代の精算時に「これからどちらへ?」と聞く女将に、迷わず「比叡山まで」と答えた。

一駅戻って『比叡山坂本』から歩いて1キロ。山の麓から出ているケーブルカーに乗って、海抜654メートルの延暦寺駅に到着した。外はまだたっぷりと雪が残り、外気も突き刺すように寒い。冬場にしては軽装だった自分を恨めしく思いながら、延暦寺へと歩く。やはり、いくら観光地とは言え、こんな寒い中、ついでに雪の影響で足下が滑って危なっかしいところに来る酔狂はそういない。

静かで、霧のけぶる広大な境内の中を一人歩く。国宝の根本中堂などを見て回り、こんな厳しい冬でも厳格にお勤めをしているお坊さん達なども見学させて貰う。

どこへ行っても人の少ない中、ふと、遠くから、一人の中年のお坊さんがやって来るのが見えた。彼は私を認めると、「こんにちは」と笑顔で挨拶してくれた。

たった一言。社交辞令の域を出ていないだろうはずの一言。ただ、そこには、私たちが日々の慌ただしさに負われて忘れがちな、はっとするような礼節が宿っていた。

その正しさに触れた瞬間、私は、この酔狂旅にも意味と収穫があったのだと悟った。

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