昼飯にそうめんを食いながら、『容疑を否認』について考えてみた。

日記
この記事は約3分で読めます。

どうも。フジカワです。髪の毛がざわざわして、散髪に行きたい気分なのですが、後1週間は待たないと、サイクル的におかしな事になるので、ぐっと耐えています。

さて。タイトルの話を。ニュースを見ていると、日々、様々な事件や犯罪が起きます。それらはまあ、仕方のないこととして、時々、容疑者が、『容疑を否認』する場合があります。世間一般の人々は、恐らく、それを聞いたら、『往生際の悪い奴だなあ』と思うはずです。つまり、『容疑』の時点で、『真犯人』を決めつけているわけです。

そりゃまあ、例えば、未熟な親共による、児童虐待なんかは、『密室犯罪』に近いわけですから、容疑者の親は、ほぼクロでしょう。その他、どこをどう考えても、絶対的な証拠があって、それでもシラを切る奴、というのは、確かにいます。

しかしながら、世の中には、残念なこととして、『冤罪による誤認逮捕』というケースも、多々あります。日本中の刑務所には、収監されてなお、それこそ死ぬまで、自らの潔白を訴え続ける人、というのも、結構います。警察による、脅迫まがいの自白強要、というのも、頻繁に聞きます。

とかくマスコミというのは、『わかりやすい悪役』というのを軽々に決めつけて、よってたかっていびり抜きます。そこに、『真実』は関係ないわけです。最も有名な例は、もうかなり昔の話ですが、あの、オウム真理教による、『松本サリン事件』でしょう。ご記憶の方もまだ多いと思いますが、アレは当初、全く無関係な人が、容疑者として疑われ、その後のマスコミ(テレビ、雑誌問わず)の、まさに集中砲火と言わんばかりの『容疑者晒し上げの刑』の数々は、酷いの一言でした。

残念なことに、この世の中は、『疑わしきは罰せず』ではなく、『疑わしきこそ罰する』のが、通例のようです。実際、この僕だって、数年前に、完全な冤罪で、全くの赤の他人から、詐欺の嫌疑で、被告として、訴訟を起こされたぐらいですからね。

要は、世の中の一般人は、リアルであれ、ネット上でのバーチャルであれ、『生贄』を、常に欲しているのだと思います。ひとたび『標的』が決まれば、自分達の、日頃のうっぷんを、『生贄』にぶつけます。そして、『生贄』が苦しめば苦しむほど、『祭り』は最高潮に達します。

マスコミ(主にテレビ)が、常に真実を伝えているはずがありません。ところが、世間一般の人々は、マスコミを『絶対的な物』として、『信仰』しているように、僕の目には見えてなりません。かの、『ステルスメジャーアーティスト』である、平沢進師匠が、『崇めよ我はTV』という曲を作られたことがありますが、まさにその通りです。

ネット社会が浸透していくに連れ、判断(取捨選択)能力、つまり『ネットリテラシー』の重要性が、しばしば議論されますが、それはそっくり、テレビにも当てはまると思います。

テレビというのは、『視聴率様』のためには、手段を選びません。平気で嘘をつくものです。それどころか、『テレビから与えられる情報』というのは、ほぼもれなく、恣意的に作られた物です。みんな、それに気付かずに、相変わらず『テレビという邪神』を信仰し続けています。それが僕には、時々そら恐ろしくなります。

『テレビ』という媒体そのものが駆逐されるまで、この残念な風潮は、変わることはないでしょう。どんなホラー映画よりも、怖いと思います。

んじゃまた。

応援よろしくお願いします!
にほんブログ村 オヤジ日記ブログ アラフォーオヤジへ
にほんブログ村

エッセイ・随筆ランキング

コメント

タイトルとURLをコピーしました