『存在する』こと自体に疲れすぎて、逆に哲学の小径を歩くような。

日記
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どうも。フジカワです。『人の悪口を言う』のは、ものすごく簡単なストレス解消法ですが、その手の人々は、たいてい、『因果応報』という言葉を知らないように思えるのは、僕だけでしょうか。そんな、やさぐれた気分の夕方、皆様いかがお過ごしでしょうか。

今日は、名実共に一日が長くて、墓参りからの帰宅後、ここを1回更新したら、後はもう、まさしく『血のクソの詰まったずだ袋』としか言えないような、疲れ果てた時間を過ごしております。なぜ、2回目の更新をするのかって? それはもう、再三再四言ってるように、寝室で横になっていても、『背中にのしかかってる何か』が、無駄に僕をせき立てるからです。

今、と言うか今日に限らず、僕が欲して止まないのは、『安寧』なんですけど、地球とイスカンダルぐらい離れてて、もはや『無い物ねだり』に近いというのが、無性に哀しいです。

で。今日もやっぱり、『存在する』こと自体に疲れを感じていて、『ヒトはなぜ生きるのか?』といった、世の哲学者達の、永遠の命題のようなことを考えてしまいます。別に僕は、哲学をかじるどころか、舐めてさえいない(大学時代、一般教養の科目であった、哲学の講義は、サボり倒しました。もちろん、それで単位がもらえたはずもありません)ので、下手に足を踏み入れると、現在、極めて真面目に哲学を研究している方々を、愚弄することにもなりかねません。

なので、努めて考えないようにはしてるんですが、いかに寝ぼけていようとも、脳味噌を持ってる以上、『小径を歩く』ぐらいの許可は、頂きたいものです。ダメですか?

多分一度書いたかも知れないと思うのですが、今の僕は、別段、世をはかなんでるとか、誰かを恨んでるとか、一切合切に絶望しているわけではありません。死にたいとも消え入りたいとも思ってません。単純に、周りの全てに現実味がなくて、昼も夜も、心が安まる暇が無いので、極端に疲れている、というだけの話です。

この世の全てには、意味があります。例えば、道路に引かれている、車両の停止線1本にさえ、ちゃんと『意味と根拠』があります。『無意味な人生なんてありませんよ』と、『優しい人』は言ってくれるかも知れませんが、ならば、今の僕の、常にそれとなく、マイルドな拷問を受けてるような、なんかもう、冒頭で述べた『因果応報』の言葉通り、己の所行が、一気にまとめて団体様で、僕に復讐してるような、そんな状態に『意味』はあるのか?

なるほど。確かに僕は、一見『お行儀がいい』ようで、その実は全然そんなことのない、はた迷惑な半生を送ってきました。相応の宿命だと思えば諦められるかも知れませんが、それにしたって辛すぎる。下には下がいるとは言え、その手の人々が、今現在、僕と同じく苦しんでるかと言えば、多分、そんなことはないでしょう。

いやまあ、僻んでるわけでも、拗ねてるわけでもないですよ? このブログのコンセプトは、タイトル通り『チラシの裏』ですから、現在進行形で、思ったままを書き殴ってるだけです。単に、心の中で、『パトラッシュの一個師団が、空からいっせいにパラシュート降下してきてる』という表現で、伝われ!(多分無理です)

なんで人って生きてるんでしょうね? と、ここで疑問が振り出しに戻るわけです。で、永遠に解決しないまま、例えば、頭が良すぎた、あの若き哲学者であった、そして僕も結構リスペクトしている、藤村操みたいに、『煩悶遂に死を決す』と、華厳の滝に身を投げたりするのです。

彼なんか、『大いなる悲観』が、ぐるっと一周して、『大いなる楽観』に至るまで考え抜いて、それで結果として、自死を選んだんですから、逆に立派だと思います。中途半端なペシミストの僕なんかには、絶対たどり着けない境地です。

僕のこの、『存在自体への疲労』も、『ぐるっと一周』すればいいんですけど、そもそもの精神病状態が『既に一周回った』のが、現状ですからね。どうしようもありません。

『パトラッシュ! 僕はなんだか疲れたよ!』と、俳優の筧利夫氏が叫べば、とたんに暑苦しくなる不思議。トランシルバニアのサミーが死んだ!

んじゃまあ、ブツ切り上等で、この辺で。

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