なんかもうね、なんかもうね。(2回言うな)

日記
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どうも。フジカワです。今朝はものっそい寝覚めが悪くて、この苛立ちを、どこにもぶつけようがないので、なおさらどうしたもんかと。『無意味に周囲に当たり散らす』のは、『鏡を殴る』のと同じ事だと思ってます。つまり、ちょっと昨日の話と被るんですが、全部は自分に跳ね返ってくる、ということです。微妙に意味は異なりますが、『人を呪わば穴二つ』と、まあどっこいどっこいかと。

さて。本来ならば、世間の人々にとっては、今日はいわゆる『花金』。ウキウキの週末です。ですが、僕にはほぼ関係がありません。すなわち、終わりのない自分との戦いであり、まったく改善の兆しが見られない、存在そのものへの疲労感と、どう向き合って1日をやり過ごすかです。

既に意識は混濁し始めているのですが、朝の薬を飲むために、階下に行った際、点けられていたテレビで、なんか役者さんがインタビューされてるのが、目に入ってきました。詳しく聴き入るまでもなかったのですが、ふと思ったのが、『花(あるいは、華)』について。『花』と言えば、世阿弥の『風姿花伝』ですが、僕はアレを読んだわけではないので、深くは踏み込めないにしても、世の中、『華のある人間』と、そうではない人々、に、二分されると思います。僕は大学時代に芝居をかじっていたので、感覚としては、結構分かってる『つもり』です。

ヒトは、『自分自身の人生』においては、『主役』であるべきですが、ひとたび『社会』という『舞台』に出ると、明確に『役』というのが与えられます。誰もが『主役』になりたがりますが、全ては、『主役を張れるか』の『華』を持っているか否か。残念な現実として、『ピンだと辛い』タイプの人が、大多数です。

これはあくまで僕の一意見ですが、『華』というのは、『カリスマ性』と、ほぼ似ているのではないかと思います。本物の舞台芝居にしても、脇役というのは、主役を引き立てるために存在します。ちょっと乱暴な言い方をすれば、『華』に引かれて集まる、蝶々みたいなもんです。同じく、『カリスマ性』を持っている人の元には、多くの人が集まります。

この手の話をして、僕の中で、強烈な印象に残ってる人が、2人います。1人は、大学の演劇部時代に、そりゃあもう優しくしてくれた先輩がいらっしゃるのですが、その方は強烈な個性の持ち主で、『演劇部のリーサルウェポン』の異名を取っていました。どこがどう、かというと、ひとたびその人が、『舞台の袖から出てくる』だけで、お客さんの笑いが取れるという、卑怯なまでの魅力の持ち主でした。ただし、その方も、主役を張れたかも知れませんが、どちらかと言えば、『名バイプレイヤー』でした。

もう1人は、僕の、名古屋勤務時代の、会社の社長さん。いわゆる『超』が付くほどの『ワンマン社長』の典型だったのですが、同時に、ものすごい『華』を持っており、社内で社長の姿を見る度に、僕は、『ほんまにこの人、男前やなあ』と思ったものです。いったんキレたら、この上なく恐ろしかったですが。その社長さんはもう、会社を他人に売り渡し、今はどこでどうしてるのか、まるで知るよしはありません。お元気ならば、それでいいです。しかし、名古屋勤務時代のことは、僕の中ではいまだに、昨日のことのように思い出せるのですが、もう20年も前のことかと思うと、一周回って信じられません。

と、『主役と脇役』について少し書かせて頂きましたが、注意点は、いかに自分が『脇役』『チョイ役』であろうとも、断じておろそかに出来ない、ということでしょう。1つの公演は、『全員が全力を出し切って』初めて成功するモノです。つまり何が言いたいのかというと、『どうせ自分なんて』と、世を拗ねてる時点で、その人間は既に、『負けている』ということです。それどころか、『他の出演者の足を引っ張って』います。いいことなんて、1つもありません。

確かに僕は今、精神の病が、こじれにこじれてます。毎日がとても辛い日々ですが、少なくとも、『世を拗ねて』はいません。『世間という舞台上』では、『出番』はなくて、『袖』で、息を殺しているのが関の山だとしてもです。

僕にとって、全ては夢、全ては舞台。あらゆることに現実味が湧かない中で、書けるだけ書いてみました。

んじゃまた。

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