どうも。フジカワです。僕のような精神病患者には、家族のサポートというのが、結構大事なのですが、こと、うちの親に限っては、『息子の病状を理解する努力』をハナから放棄しているように見えて、かつ、何でもかんでも、薬のせいにしようとするので、ほとほと困っています。皆様いかがお過ごしでしょうか。
さて。3連休最終日。敬老の日です。僕の親も、80歳をとうに過ぎてますが、まだまだ元気です。そりゃまあ、かなり耳が遠くなってきたり、相当忘れっぽくなってきているのは事実ですが。
んで、最近の、バスの車内放送で、地方のお上から、『認知症の人々に優しい社会を』と呼びかけるのを、よく聞くようになりました。2025年には、高齢者の5人に1人は、認知症の人になる、という予測があるそうです。大前提として、僕は決して、今現在、認知症の身内を必死で介護している皆様を、愚弄したりはしませんが、『社会全体』で見た場合、このお上の呼びかけも、かけ声倒れに終わるんじゃないかなー、と思ってます。
『社会という舞台』は、総じて冷徹です。そして、(まあ、僕自身、カサに着る気持ちは毛頭ありませんが)僕みたいな障害者には、一部を除いて、『出番』はほぼありません。同じ『舞台上』でも、『袖』で、息を殺して、『幕が下りる』のを待つだけです。
さらに、『力のある者』と『ない者』の、圧倒的なヒエラルキーがあります。確かに、認知症の方々は、明らかに『弱者』です。悪し様に言うわけではありませんが、最底辺です。んで、『世間という舞台』の『シナリオ』は、残酷物語の極みです。『力なき者』、あるいは『秩序を乱す者』は、徹底的に『上』から疎まれ、蔑まれ、時には人格さえも否定されます。
巷間に、『年寄り笑うな、ゆく道だ』とは言え、大多数の人間は、『元気な自分』にあぐらを掻いて、『厄介者』に『成り下がった』老人達を、心のどこかで小馬鹿にしているのだと思います。少なくとも僕の目には、『世間一般の普通の人』が、『一寸先は闇』、あるいは、『明日は我が身』という言葉を忘れ、極めて刹那的に生きてるように見えます。
僕も、とうに人生の折り返しを過ぎました。『人生百歳時代』といわれて久しいですが、僕自身は、正直、そこまで長生きしたいとは思ってません。自殺する根性なんぞないですから、細々と生きるとは思いますが、例えば、身体中にチューブを繋がれて、『単に生きてるだけ』の状態になったなら、一切の延命治療は、断るつもりです。遺言を書くにはまだまだ早い歳ではありますが、それだけは決めてます。
世の『介護職』と呼ばれる方々は、本当にもう、『偉大』としか言えないよなあ、と思うのですが、そんな職業の方々が、低賃金で働かざるを得ないという現状は、絶対におかしいと思います。身内ですらしんどい介護なのに、他人の介護を『仕事』にしてるんですから、あなたは菩薩か? と言いたいのに。
今の、『面倒くさい年の取り方』をした、ワガママ極まりない、僕が大の苦手な、団塊の世代の老人達はさておくとして、せめて、『疎ましがられない老け方』をしたいなあ、と、僕は思います。
んじゃ、昼間はこの辺で。
応援よろしくお願いします!
にほんブログ村
エッセイ・随筆ランキング
コメント