なんか、色々ありすぎるとかえって、ね。(思い出話とか)(雑記)

身辺雑記
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何であれどこであれ、「不快だな」と思ったら、それ(対象)をなるべく早く排除(ないしは整理)したほうがいいことにやっと気づきました(挨拶)。

と、いうわけで、フジカワです。別に「幸せすぎて」なんてこたあ決してないのですが、頭の中を不意に「死」の一文字がよぎる水曜日、皆様いかがお過ごしでしょうか。

今日は日記というより、思考の垂れ流しです。いつもそうだろ? って言われたらそれまでなんですけども。

なんか「僕って今まで、何をしてきたんだろう?」ということが、妙に気になりまして。いまわの際チックですけど。

一番古い記憶は、幼稚園の頃でしょうかね。まあパッとしねえ子供で、その頃から食い意地だけはいっちょ前だったのは覚えてます。

小中高はまとめて「暗黒の時代」でした。12年間いじめられっ子でしたから。いつだったかに家の整理をしていた折、小学生の頃に先生へ宛てた作文が発掘されたのですが、見事にいじめっ子への恨みつらみに満ちてましたよ。

ただ、その頃の慰みと言えばピアノを弾くことでした。いつだったかに「ベートーベンの『エリーゼのために』なら暗譜で弾けた」と書いたことがあると思いますが、あれは本当の話です。

あと、当時弾けてた曲で低音の重厚感が印象的だったのが、サン・サーンスの「動物の謝肉祭」でしょうか。詳しい旋律まではもはや覚えてないのですが。ただ、ピアノを辞めると、音符すらもう読めなくなりましたけどね。

で。これもいつか書いたと思うんですけど、13歳の頃、某声優養成所のオーディションを受けて受かったことも忘れられません。

あの時、妙な臆病風に吹かれずに(どうせ学費は親が出してくれただろうし)思い切って通ってりゃあよかったですね。本職の声優になれたかどうかは別にして。

実はと言うか、その当時から、アマチュアの放送劇サークルに入ってたんですよ。神戸の公民館で、毎週日曜日に集まって、自主制作のカセットドラマテープを作ってました。

その同じ公民館で活動していた別のサークルの主宰者が、現在は第一線で活躍中の声優である、一条和矢さんでした。

僕がいたサークルとも交流があって、僕は勝手に一条さんを(心の中で)「兄さん」と呼んで尊敬していました。「だからどうした?」的余談ではありますが、僕は一条さんの本名も知ってます。

30年以上前の話ですけど、一条さんの芝居はその頃から抜群に巧かったです。さすが、後に神谷明氏に見いだされただけはあります。

こぼれ話として、その一条さんのサークルが(萩原一至先生作のマンガである)『BASTARD!!』のドラマテープを作るということになり、公募でキャストのオーディションを開いたんですよ。

僕も(オーディション会場の)神戸の某所まで出向いて参加したんですが、自分の声質がかなり甲高いことを全く自覚しておらず、ダミ声が似合ってしかるべきキャラに挑戦し、あっさり落ちました。

後で聞いた話によると、主役のダーク・シュナイダーは当然一条さん。で、ヨーコさんを後の一条さんの奥方でいらっしゃる、ひと美さんが演じられたそうです。

今でこそ言えるんですが、その頃の僕は本当に一条さんに憧れてて、あの渋い低音ボイスを必死で真似たものです。もちろん、見事に空振りましたけど。

さらに余談ですが、あれは35~6歳の頃でしょうか? mixiで一条さんのサークルの後継の方と知り合い、超久しぶりに(当時と同じ神戸の公民館で)サークル活動に参加させてもらったこともありました。

そんな「芝居、声優」に憧れて活動していた(僕のいた)サークルも、内紛というか内ゲバというかで消滅し、僕の中には「芝居熱」だけが残りました。だいたい大学生頃の話です。

そういうテンションでしたから、大学では当たり前のように演劇部に入ったんですけど、勉強との両立が難しかったのと、己の手先の不器用さに絶望したのとその他諸々がありまして。1年半在籍して退部しました。

そりゃ完璧に僕のせいなんですけど、いかに2年未満であろうと部活に熱を入れすぎたせいで、必修の第二外国語(フランス語)の単位は落として再履修になるわ、その他単位も落としまくり、最後の最後で単位の計算を間違えて半年留年したという。

忘れちゃいけないのが、ちょうどハタチの頃に起きた、阪神淡路大震災。大学が神戸市東灘区でしたから、一番被害が甚大だったところです。校舎はほぼ壊滅。在校生も多数犠牲になりました。「芝居と勉強、どっちが大事なんだ?」と、ある日真顔で僕に問うた、O先輩も。

時間は戻りますけど、中学生時代に生涯忘れようのない経験をしました。「日本宇宙少年団」(YAC)という公益財団法人があるのですが、中学時代の僕は、そのメンバー(団員)でして。「海外の少年団と交流しよう」という名目で、みんなに作文を書かせ、選ばれた子が海外旅行へ連れて行ってもらえました。

そう。僕も選ばれたんですよ。アメリカ行きのメンバーに。引率の先生、もとい代表者は、漫画家の松本零士先生でした。つまり「あの松本零士先生と一緒に、アメリカ旅行をする」という、まれなる経験をしたわけです。

一応、その証拠として、当時松本先生に描いて頂いたメーテルのサイン色紙です。1988年8月、とあります。額にきちんと入れたのがかなり後の話だったので、あんまり状態は良くないですけど、僕の宝物です。

話を大学時代に戻して、その(難しかった)フランス語の授業中でした。前の席からこっそりメモが回ってきました。読むと「合コンをするので、参加希望者は名前を」とあったんですよ。

ところが、そのコンパ当日は、演劇部のリハーサルの日でして。参加できるはずもなく、以来、僕のところへコンパの誘いが来ることは二度とありませんでした。

まあ、僕は当時からモテた試しのない豚野郎でしたから、仮に参加できたとしても意味はなかったと思いますけど。

その頃から我流で詩を書き始め、ゼミが臨床心理学専攻だったのをいいことに「詩集を作って、卒論だと言い張る」というトンチキな暴挙に出ました。

結果的にそれで8単位くれた教授には、感謝しかありません。ですので、僕に「卒論で苦労した」という経験はまったくないという。

詩を書く趣味が小説を書く趣味に発展して、その後うっかりとエロゲライターデビューしたんですから、世の中何がどう転がるか分からんもんです。

15年以上のライター生活時代は「勘違いしたままの楽しい夢」でした。一言で言えば。何度か書いてる通り師匠なんていませんでしたから、ハナからシメまで我流で、関係各方面には多大なご迷惑をば。本気でタイムマシンが欲しくなります。過去の僕自身に説教するために。

その勘違いが矯正されたのが、既に仕事を干され始めて「僕終了」の頃合いだったという。タイミングの悪い人生は、多分前世のツケかなんかでしょう。

創作というのは、魂を削る仕事です。精神を病んだのは、26歳ぐらいの時だったでしょうか。名古屋勤務時代、ディレクターと言う名の中間管理職になって上と下からの板挟みになり、キマシタワと。また余談ですが、当時の会社が入っていたビルの2Fに精神科クリニックが入っており、仕事帰りに通院しました。

で。気づけばこの病気とも、20年の付き合いという。薬が減って快方に向かってた時期もあったんですけど、やっぱりダメでしたね。

そろそろ締めましょう。もしかしたら暴論ですが「自殺する」には「資格」のようなものがいると思います。「それ」は生半可なことでは会得できず、怠惰の化身である僕などには、絶対に無理です。

だから時々(不謹慎な)ネタで思うんですよね。小林製薬あたりが「飲めばたちまち安楽死!」みたいな薬を出さないかなー「ヒトコロリ」とかの名前でなー、とかね。

さあ、いい加減疲れてきたので、きゅっと締まってはいませんが、このへんで。

んじゃまた。

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